背負袋は、大正8年(1919年)に制式化された装備であり、大東亜戦争末期まで、形状をほとんど変えることなく使用されました。それ以前にも既製品の背負袋は存在していましたが、大正8年までは制式としては制定されていませんでした。
「下士官兵卒背負袋の制式制定の件」1によれば、制式化に伴い、以下の点が変更されました。
- 地質の変更
- 従来は雲斎生地を使用していたが、厚すぎるため、茶褐厚織木綿に防水加工をしたものに変更
- 形状の変更
- 縫製と出し入れ口を変更し、締紐を追加
- 寸法の増大
- 飯盒の出し入れを容易にするため、全体の寸法を大きくした
背負袋の口を締める短い紐は制式化前はなかったようです。またこの史料の図面を見ると下締紐しか存在せず、反対側には締紐がありません。昭和期の背負袋を見ると両側の口に締紐がありますので、上締紐は後から追加されたと思われます。
背負袋に関する史料は日露戦争中から存在しています。それらを見ていくと、軽装での戦闘時に大いに良好2とする意見があり、野戦隊の補充員には背嚢の代わりに背負袋を支給すること3になっています。日露戦争中は背負袋がかなり活躍したようで、戦訓に基づいた改良の指示なども多数出されていました。特に当時の生地は防水の問題があったらしく、応急処置としてゴム引きの袋を手配4させていたようです。
そもそも背嚢と背負袋は機能が重複しており、両方を持たせるのは、ある意味では無駄であり贅沢な装備とも言えます。
そのため、大東亜戦争で物資が不足し始めると、次第にどちらか片方のみが支給される傾向が強まったようです。
一次史料を確認した限りでは、昭和16年頃から背嚢を支給せず背負袋のみとする例が見られ始め、昭和17年頃には背負袋のみが支給されるケースが大半を占めていたようです。
昭和10年製 大阪陸軍被服支廠
使用感はあるものの、締紐の欠損はなく、紐も綿製で質が良い。所属部隊と使用者名が記されている点も興味深い。
特に面白いのは、あちこちに何度も名前が書かれていることである。押印部分にもわざと自分の名前を書き重ねており、元々どのようなスタンプが押されていたのか判読できない。
昭和17年製 陸軍被服本廠
未使用のデッドストック品で、本体の生地の質も良い。昭和19年のものと比べると、生地がやや厚いように感じられる。締紐も綿製で、状態は非常に良好である。
昭和19年製 大阪陸軍被服支廠
生地が黄色味の強いカーキ色。若干の使用感があるが、全体的に美品。締紐も綿製で、状態は非常に良好である。
昭和19年製 大阪陸軍被服支廠
未使用のデッドストック品。上下の口締紐は綿製だが、中央の長い締紐はスフ製である。全体的な状態は非常に良いものの、スフ製の紐には当初から繊維が玉状になっている部分があり、品質の低さがうかがえる。
昭和19年製 大阪陸軍被服支廠
未使用のデッドストック品。全体的にきれいだが、本体の裏地にはスフが用いられており、厚みが薄くやや頼りない印象の生地になっている。締紐もすべてスフ製で、繊維が各所で玉状になっており、品質の低さが見て取れる。
脚注
- 「下士兵卒用背負袋の制式制定の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C02030872300、永存書類甲輯第1類 大正8年(防衛省防衛研究所) ↩︎
- 「背嚢に代へ背負袋携行に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03026062500、明治37年 「満大日記 12月 自21日~至31日 三冊之内」(防衛省防衛研究所) ↩︎
- 「背負袋携行に関する件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03025561600、明治37年 「4月 自1日~至15日」(防衛省防衛研究所) ↩︎
- 「背嚢代用背負袋附属護謨引布嚢の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03027932300、明治38年 「満大日記 4月上」(防衛省防衛研究所) ↩︎
















