出征旗

  • 投稿の最終変更日:2024年2月19日
  • 投稿カテゴリー:私物
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私が古物市場で入手した出征旗(日の丸の寄書)とそれに関連する品について紹介したいと思います。古物商の免許を持っている人だけが参加できる業者用のオークション購入してきました。

出征旗のことを英語ではGood Luck Flagと呼ぶようです。敵兵がこの旗を入手したのは主に日本兵の遺体や捕虜からでしょうから、「幸運の旗」と呼んだのは何とも皮肉な感じがしてしまいます。

日本以外の国では、国旗に文字を書き込むことは、国旗を冒涜するような行為と捉えられる場合もあるようです。そのため、他国の人からは奇妙なものに映るようですね。一応、当時の日本人たちも、真ん中の赤い丸には文字を書き込まないという暗黙のルールがあったようです。しかし、数は多くないですが、赤丸にも文字を書き込んである出征旗も見かけます。

今回は、出征旗2枚、漁業協同組合の鑑札5枚、軍人援護に関する書籍3冊が同時に出てきました。全て同じお宅からの出物です。複数のものがまとめて出てきたことで、寄書だけではわからない情報も得られました。

史料から読み取れること

まず、1枚目の出征旗から読み取れる情報です。サイズは縦70cm×横108cm。以下に注目ポイントを書き出しましたので、画像2枚目に書き込んだ丸数字と照らし合わせて参照してください。

  1. 出征旗を贈られて出征したのは「篠﨑一郎」さん
  2. 上部に「皇軍萬歳」の文字
  3. 参拝日のわかる朱印
    • 「北口中宮 富士小御嶽神社 昭和十八年七月十日参拝」
  4. 複数の朱印
    • 「富士二合目北口」「登山證」「北東頂上之印」「官幣大社かんぺいたいしゃ浅間せんげん神社」等の文字が見られることから、富士登山をし、富士浅間神社を巡って無事を祈願したのだと思われる
    • 富士浅間神社は、縁結びや夫婦円満にご利益のある神様
  5. 贈呈者の名「黒子」

この出征旗を準備しているのは「黒子」さんという女性の方です。私は、黒子さんは一郎さんの奥さんか恋人なのではないかと想像しています。この出征旗からだけでは、黒子さんが一郎さんの母親である可能性もあるのですが、もう一つの出征旗の寄書から、一郎さんの母親は別の方だと推測しました。

一見すると、この出征旗はあまり書き込みも多くないのですが、非常に手間をかけて準備されていることが分かります。黒子さんは、一郎さんの無事を祈って、富士山周辺の神社を一つ一つ巡って願懸けをされたのでしょう。参拝日が1943年7月10日ですので、一郎さんの出征は1943年7月~8月頃と予想されます。

次に、2枚目の出征旗です。サイズは縦68cm×横82cm。親類や縁者が名前を寄書して、無事を祈ったものです。「武運長久」の文字の部分が劣化して破れてしまっています。以下に注目ポイントを書き出しましたので、画像2枚目に書き込んだ丸数字と照らし合わせて参照してください。

  1. 「祈武運長久」
  2. 国幣中社こくへいちゅうしゃ二荒山ふたあらやま神社」
    • 国幣中社というのは神社の格を示す単語で、二荒山神社は栃木県宇都宮市にある神社
    • 二荒山神社は招福と縁結びの神様。黒子さんが一郎さんと結婚前だったので、無事に帰ってきて結婚できるように縁結びの神様を選んだのではないか、と想像するのは深読みしすぎか?
    • 二荒山神社の朱印も押されていることから、ここで祈祷をしてもらったと考えられる
  3. 「祈武運長久 黒子」
    • 控え目で小さな文字だが、文字の位置や向きから、黒子さんが幹事となってこの出征旗も作成していると予想
  4. 「義勇奉公 篠﨑彦太郎 篠﨑タケ」
    • 後述の鑑札の情報から、彦太郎さんが父、タケさんが母と予想
  5. 「尽忠報國 宇都宮市長 入江操いりえみさお
    • 入江操が宇都宮市長を務めたのは1940年(昭和15年)12月31日から1944年(昭和19年)12月30日まで
    • もう一つの出征旗に記載された参拝日である1943年(昭和18年)7月10日とも時期が一致する
  6. 「篠﨑一郎」

同時に出てきた栃木県鬼怒川漁業協同組合の鑑札です。

  • 鑑札に書かれている名前は「篠﨑彦太郎」さんで、寄書の中にも名前がある
  • 鑑札の篠﨑彦太郎さんの住所と、この後紹介する書籍に書かれていた篠﨑一郎さんの住所が一致しているので、彦太郎さんは篠﨑家の家長である
  • 篠﨑彦太郎さんは、篠﨑一郎さんの父親だろうと思われる(寄書の中に「篠﨑彦太郎」と「篠﨑タケ」の名が寄り添って書かれているので、これがご両親と推測した)

同時に出てきた書籍3冊です。これらは「軍人援護」に関するもので、戦死した軍人の遺族、負傷をして除隊した傷痍軍人、招集解除になった帰郷軍人を支援するための法令に関するものです。

  • 書籍には篠﨑一郎さんの記名があるため、彼の所有物。付箋を付けたり線を引いたりしてあるので、軍人援護法について調べていた様子
  • 戦時中の軍人援護法の資料を持っていて、詳細を調べていた形跡があるため、一郎さんは、終戦前に傷病等で除隊になったのではないか
  • 3冊の書籍のタイトルは以下の通り
    • 「現行軍人援護法規輯覧しゅうらん」(昭和18年4月8日発行)
    • 「軍人援護」(昭和20年3月15日発行)
    • 「軍人遺家族 傷痍軍人 帰還(郷)軍人 援護大鑑」(昭和14年6月)

考察

史料から読み取れた内容は以下の2点です。

  • 栃木県宇都宮市に住んでいた篠﨑一郎さんは、1943年(昭和18年)7月~8月頃に出征
  • 何らかの理由で除隊、終戦前に故郷に帰還した

彼の親族であれば軍歴証明書を取得して従軍記録を調べることもできるのですが、私ではこれ以上確認する事はできません。そのため、ここからはあくまで私の想像です。

陸軍の歩兵として応召していたとすると、郷土部隊である宇都宮の師団に入ったのかもしれません。宇都宮の師団というと、満洲からパラオに転出した第14師団や、ニューギニア戦線で戦った第51師団などが想起されます。ただ、1943年7月以降の入営だとすると、これらの師団は既に前線に出ていますので、時期的には留守第51師団から改組された第81師団かもしれません。

黒子さんはきっと、一郎さんの恋人なのでしょう。無事に一郎さんに帰ってきて欲しくて、富士山に登って縁結びにご利益のある浅間神社を巡って願掛けをしました。更には地元の縁結びの神社でも願掛けをしました。幸か不幸か一郎さんは負傷をし、何か障害を負ったかもしれませんが生きて帰ってくることができました。きっと一郎さんは、黒子さんと結婚したのでしょう。

私たちの手元にやってくる軍装品には、それぞれ来歴やストーリーがあったはずです。通常は、記名程度しかわからなかったりしますが、日の丸の寄書のようなものだと情報が多く、いろいろと想像力をかき立てられますね。

このように、ご先祖様の軍装品からは、いろいろなことが見えてきたりするのですが、残念なことに多くの遺族の方はそれらに全く興味はなく、多くはゴミとして捨てられてしまうのが現状です。我々コレクターは、これらを少しでも後世に伝えていけるとよいですね。